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サクブンチョウ

生活と音楽と物語と

「美」の呪いについて - 映画『ネオンデーモン』感想

2017年2月11日

 

「美しさは全てではない、唯一である」印象的な一節だった。
(ちなみに原文は"true beauty is the highest currency we have, without it should be nothing" 邦訳として非常にハイセンスだなと思う。)

 


The Neon Demon Movie CLIP - Beauty is Everything (2016) - Elle Fanning, Bella Heathcote Movie HD

 

これから書くのは『ネオンデーモン』についての感想である。様々な評価がされているのようだけれど、私なりに感じたことを整理しようと思う。先に断っておくれけど、ネタバレが多分に含まれるので留意してほしい。

 

 

難しいことをダラダラと書くのは味気がないし退屈なので(灰色になってしまう)、結論だけ述べると、総合芸術として良い作品だった。

テーマが一貫していたし、音楽(エンドロールはいただけないが)、光、彩色、モチーフが作り込まれていて、情報量がとても多い。そのせいで、堰が壊れたように決壊した疲労が襲ってくる。

ああ、これは文学だな、と。映像をツールとして表現した文学。構造と比喩が緻密だっった。表現したいことに対して、映像と言葉、効果的な方を使っていたように思う。

タナトスやエロスの演出には、映像を。(例えば、プールのシーン。大きな棺を想起させるし、飛込み台に立つジェシーは十字架を体現していた。巨大な墓標。タナトス。月明かりの中での失禁のシーン。月経と妊娠の比喩だと思われる。まさしくエロスだった。)

伝えたいメッセージには、言葉を。

true beauty is the highest currency we have, without it should be nothing

とか。

 

それから、これは神様あるいは王の話だと思った。「美=絶対的なもの」と定義しているから、その構造は納得である。

古代の国家では、王は特別な力を持っていたそうだ。その力は次代の王へと継承されるのだが、その継承方法は、王を殺すことただ一つで有った。超越した力は、タナトスを媒介にして次の者へと移っていく。

 

ジェシーが写真撮影されるシーンはまさに王を表していはいなかったか。ジェシーには古代文明の王を想起させるような顔細工が施され、そして肉体を強調した男性性としてのカメラマン、彼は力を与える神官のようであった。金箔も王のメタファーとして機能していた。

 

最後、賞味期限切れ(out of date)のモデルが再び息を吹き返したのは、ジェシーの持っていた「美の力」を正当な手段によって継承したからなのだ。

 

全体的に「宗教画」みたいな印象があるのは、この仕掛けのせいではなかったか。

 


ここからは退屈を持て余した人のために、一体何人いるかわからないが、つらつらと3つの観点から詳細を書いていこうと思う。

・テーマの普遍性
・映像としての美しさ
・徹底的な対比構造と比喩

テーマの普遍性

「美」というものはとても強い力を持っていて、私たちはしばしばその力に飲まれてしまう。その飲まれ方はもはや陶酔であり抗えない。そのせいで、古今東西頻繁にテーマとしてみるけれど、「美」の力の強大さを描いたものは少ないように思う。「美」にとりつかれたら最後、それは逃れられないのだ。どんな制約やルール、倫理にとっても「美」の眼前では無力。

この作品では、その呪いは、殺人とカニバリズムをもたらした。ジェシーの殺害はモデルの賞味期限云々の文脈で語られるべきではなく、「美の呪い」の結果なのだ。

 

みんなが私に憧れる

 

そう。ジェシーの美がみんな欲しかったのだ。
モデルの二人、そしてメイクのルビー。彼女たちは「美」を追い求め、それぞれに生活をしていた。しかし、ジェシーの存在によって永遠に届かないことを悟る。
いや、違う。
「美」を手に入る唯一の手段を悟った、というべきだろう。

だから殺して、それから食べた。


でもきっと、この感覚は珍しいものではなく、とても艶やかな青色でドレープのリズムが均一な服を見つけたら買わずにいられなかったり、真っ白でふわっとした生クリームに包まれた真っ赤ないちごとショートケーキにうっとりして頭がいっぱいになってしまうことの延長である。私たちはその呪いが弱いから、どうにかこうにか生活できているだけなのだ。


さて、この映画を見て1つの小説を思い出した。三島由紀夫の『金閣寺』である。
唯一の「美」にとりつかれ、その存在に魅了され、生活を壊され、それでも諦めきれず、「美」を燃やすことで克服し、手に入れた1人の禅僧の話。

 物語冒頭から漂っている「美」の魔力。

私が人生で最初にぶつかった難問は、美ということだったと言っても過言ではない。
あれほど失望を与えた金閣も、安岡にかえったのちの日に日に、私の心の中でまた美しさを蘇らせ、いつかは見る前よりももっと美しい金閣になった。 

そして、彼は悟るのだ。 

金閣を燃やさねばならぬ  

燃え盛る金閣寺を見つめながらのこの一節が印象的だった。

一ト仕事終えて一服している人がそう思うように、生きようと私は思った

 

要するに、ネオンデーモンの構造は金閣寺の構造とほぼ同一なのだ。普遍的な構造が、素材を変えて描かれている。

 

普遍的な題材に対して新しい価値をつけているのが、この作品の真価なのかもしれない。それを支えるのが、残り2つの要素である。 

映像としての美しさ

この作品の監督は ニコラス・ウィンディング・レフン

彼は色覚障害を持っていて、中間色が見えないらしい。それゆえか、映像の色使いが驚くほど美しい。全体的に彩度が強い。それから色の重ね方が、すごい。思わずうっとりしてしまう。シーンを切り取って、部屋中にちりばめておきたい。

 

これに関しては、ぐちぐち言語化するのは野暮であるので、リンクを貼って終わりにする。

 


映画『ネオン・デーモン』予告編

 

徹底的な対比構造と比喩

映像と同じくらいこの作品で緻密だと思ったのは、徹底したシンメトリーとふんだんなメタファーである。贅沢すぎるメタファーは、おいおい、こんなに盛っていいのかよ、というくらいだった。飲食店なら確実に破産である。

 

タナトスとエロス、男と女、赤と青、田舎者と都会人・・といった物語全体としての対比から、ジェシーの中の少女性と女、あどけなさとしたたかさ、劣等感と強烈な美への自信・・といった内面の中の対比まで至るところで作られていた。

 

さらに「赤と青」はメタファーとしての要素も持ち合わせている。

動脈と静脈のメタファーであり、少女性と女のメタファーである。

それから赤は変化のメタファーであり、青は停止のメタファーである。人が死ぬシーンではいつも青が使われていた。言い換えれば、エロスとタナトス。(きがする)

ジェシーが死ぬシーンは、全体的にペールブルーが引かれていたし、衣装はブルーのワンピースだった。(しかも赤いガウンを脱ぎ捨てて、着替えている!)モデルの片方が死ぬシーンは背景の壁は淡いブルーだった。

一方で、ランウェイで「美」にジェシーが飲まれるシーンは赤い光が用いられていたし、片方のモデルが「美」を取り込むシーンは赤いライトがたかれていた。移動中の車も赤だった気がする。

 

メタファーについてであるが、緊迫ショーのシーンが象徴的だった。暗闇の中、縄で縛られた女性は贄のようだった。そしてそれを眺める4人のうち、笑っていたのはジェシーだけ。ここから彼女が贄となることが暗示されていたのではないか。

 

そして山猫のシーン。あれはルビーへの脅威を暗示していた。ルビーの家には山猫の剥製があったのだから。ジェシーの明晰さがなくなってしまったことの表れなのか、とも考えたが・・・

 

三角形が多用されていたが、あれの意図は組みきれなかった。万華鏡あるは鏡面としての三角錐なのか、と思ったが。でも感覚的にはあのシーンを表すのは、四角ではなく、丸でもなく、五角形でもなく、線でもないから、三角形なはずなのだけれど。

終わりに

ここまで興奮のままに良かった側面を書いていたが、何から何まで完璧だったとは思えない。本当に必要なのかわからないシーンもあった。13歳少女へのレイプのシーンとか。ムカムカした後味の悪さの演出のために使うには、ちょっと行き過ぎているとも思えた。

 

とはいえ、総合芸術としてとてもレベルが高い作品だと私は思ったので、ここに記録として残しておく。

クソつまらんと言う意見もわかるし、見終わった人がいたら、お話しましょう。終わった後の議論も含めて、映画鑑賞が完結すると思うので。