サクブンチョウ

生活と音楽と物語と

不自由なくらしと不自由な精神

今月頭に骨折をした。

正確に言えば、右足首を脱臼骨折し、ついでに靭帯があるべき場所から剥がれてしまった。正確さを欠けば欠くほどに、情報としての意味は失われていく。単に骨折としただけでは、そこには無限の可能性があるのだ。だから面倒にも補足をした。とはいえ、これでもまだ正確であるとは言えない。

しかし私はこれ以上正確さを増やすことはできない。靭帯がどのように剥がれて、どのくらいずれているのかもわからない。折れた骨の名前も知らない。

 

正確に言えることは、私の右足首には鉄のボルトとプレートが入っていること、それから松葉杖を使わなくては(しかも2本!)移動ができないということである。

 

 

今朝恋人に言われた言葉が耳にこびりついている。ずっと奥の耳垢みたいに。あるいは、古びたマンションの外装のシミみたいに、しっかりと染み付いている。

正確に言えば、「どうしてそんなに卑屈になっているの」だ。

言った相手からすればそれは本当に他意はないだろうし、実際私は卑屈になっているのだ。だから耳から離れずに延々とこだましている。

 

どうにもこうにもしようがないが、この気持ちをどうにかするしかないのだ。問題の解決には情報収集と課題発見が不可欠である。だから、卑屈の意味について調べてみた。

【卑屈】《名・ダナ》

自分をいやしめて服従・妥協しようとする、いくじのない態度。

 なるほど、もっと傷がついた。「朝日と同時にC7を弾く」ことが起こらなかった人生を誇らしく思っていないが、自分をいやしめて服従・妥協しようとしてきたとは思っていない。腹が立ってきた。課題が増えてしまった。

 

元来内向的な人間であるので、外部に情報を求めたのが間違いだ。自己の問題は内省によってのみ解決されるべきなのだ。ああ、こうしてまた独りよがりになっていく。

 

まあ、元からここ1、2週間の精神の変化は、今私の足元に転がっている銀色の物質に起因していることは明白だ。

 

松葉杖の生活は想像以上に精神的に負荷がかかる。

人ごみに出れば多くがこちらを一瞥する。気の毒そうな顔をする人、何があったのかと足元に視線を移す人、何もみなかったように視線をずらす人。どことなく周囲に漂う気遣いの優しさと少しの窮屈さ。

コーヒーを飲むにも、人の手を借りなくてはならない。スタンド型のコーヒーショップでの「席までお持ちしますね」が痛い。

映画館にいけば、狭い通路をなんとか歩く。人の邪魔にならないようにいそいそと端の席を探す。上映前の静かな場内にこだまする「コツン、コツン」という音。席に座れば邪魔にならないように足元に杖を置く。映画の間はトイレは絶対にいけない、水も飲まずじっと鑑賞するのが賢明な選択のようだ。

音楽を聞きに行くことは不可能だし、晴れた空の下走り回ることもできない。食事も近くの飲食店ばかりになってしまう。

電車やバスに乗れば、皆疲れているにもかかわらず席を譲ってくれる。仕事に向かうサラリーマン、子供を抱いたお母さん、そんな人が譲ってくれることもあるのだ。右足以外は元気な23歳男性なのに、譲らせてしまっている。とはいえ、たち続けて30分の通勤できるはずもなく、「ほっ」としながら席につくのだ。

 

 

どこにいても、どこの店に入っても気を遣わせてしまう。

誰と過ごすにも気を遣わせてしまうのだ。

 

恋人と友人と周囲の親切な他人とに支えられて日々を生きている。本当にありがたいし、心の底から感謝している。みんなの力がなくては私は生活ができない、本当にありがとう。

 

でも「みんなの力がなくては私は生活ができない」のだ。本当にこれが苦しい。だんだんと人に会うのも申し訳なくなってしまうのだ。感謝しているからこそ、これ以上を手を煩わせたくないのである。でもその願いは届かないのだ、だって足がつけないのだから。

 

自分自身がとても弱い存在に感じてくる。この世に上下はないのだが、地に足をつけ、自動販売機でジュースを買い、コーラ片手にハチ公前で緑のバスに背をかけながら、携帯片手に友人を待つ女の子が上に見えてしまう。疲れた顔でカバン片手に読書をするサラリーマンが上に見えてしまう。彼らに比べて私の存在はとても弱い。

 

そんな日々である。しかし、時間は過ぎていくし、明日も次の予定もやってくる。

じわじわと精神を蝕んでくる猛毒である。遅効性の毒は怖い。着実に昨日より少しだけ多く毒が溜まってく。そうして或る日突然死んでしまうのかもしれない。

 

でも、きっとその時は訪れないだろう。

毒が増えるのと同じように、解毒もこの世界には溢れている。日々少しずつ解毒されているのだ。『そうして私たちはプールに金魚を』という映画によって。友人の「本当に気を使うな」という笑顔によって。真っ赤でおおきな苺がのった、真っ白なショートケーキによって。そして自分で書くこの文章によって。

 

足が治ったら歩けることの幸せを感じるのだろう。それから、世界が今までよりもほんのすこし、キラキラと見えるようになるのだろう。

 

今日も渋谷から私は松葉杖でバスに乗るのだ。