引越という病
2017年1月15日
寺山修司と引越
寺山修司という劇作家・詩人をご存知だろうか。
教養のある人間、あるいはサブカルと揶揄される何か、の人たちは既知の人物だろう。
信仰している人間も少なくないのかもしれない。
そしてこの文章を読んでくれている物好きは、上記のどちらかに当てはまるに違いないので、名前を出している、というわけである。
さて、この寺山修司、引越好きだったと思われる。「哀しき口笛」にそれを示唆する描写があるのだ。
まあ、彼のことだから、どこまでが真実なのかわからないし、インターネットで検索しても、そんな情報はない。
それでも私は彼が引越好きだったと信じることにしている。
なぜか。
私も引越が好きだから、ただそれだけである。
寺山修司が引越好きなら、この無駄に金も手間もかかる行動を何度も取ってしまう悪癖が少し肯定されるような気がしている。
引越は病であり、依存であり、趣向である。
この世に暮らす人々は大きく2つに大別できる。
引越が好きな人、と、引越が嫌いな人である。
後者は驚くほど引越をしない。
1つの街の1つの家に何年も住み続けることができる。
いわば耐久の鉄人である。
対して前者は、すぐに居を移す。
何かと理由をつけて引越するものもいれば、
理由もなく家を移してしまう人もいる。
言ってしまえばこれは病気である。
直しようがない病気である。
新しい街での暮らしに夢をはせ、
ああ、あの街で暮らしたらどんな生活が待っているだろう、帰り道にはどこへ寄って、春には何々をして・・・
そんなとりとめのない妄想を何度も繰り返すのだ。
引越病の原因
あらゆる病には根本的な原因があるので、
引越病にも根本的原因があるのではないか、と考えた。
あるとすると、その原因は、
「思い出からの逃避」なのではないだろうか。
ある街に住んで、その部屋で生活をしていると、街にも部屋にも至るところ、(例えば駅のホームとか、本棚の下から3段目の1冊の本とか)に思い出が潜んでいる。
仕事帰りの悔しい気持ちで読んだ一節とか、
恋人からの連絡を無視して、他の女の子と手をつないだ部屋とか、
3年ぶりに会う友人と飲んだコーヒーの店とか、
隣の席のおじさんと12時まで語り込んだ居酒屋とか、
洗濯機が壊れて寒い夜に両手いっぱいに洗濯物を抱えて向かったコインランドリーとか、
別れ話を切り出された、最寄駅から徒歩5分の小さな喫茶店とか、
好きな人となれない街で終電を逃して、ドキドキしながら階段を上ったあのバーとか、
そんなようなありふれた思い出が溢れている。
引越病あるいは引越病予備軍たちは思い出が溜まりすぎると、その重みに耐えきれなくなり、どうにかこうにか逃げたくなってしまう、のではなかろうか。
新しい部屋で、新しい街で、新しい匂いの中で、まっさらになったような気持ちを味わいたくなってしまうのだ。
そう考えると、引越病を発症する人間は、重度のメランコリニスタなのかもしれない。あるいは、自ら、大小様々な思い出に押しつぶされにいくほどに、感傷中毒なのかもしれない。
などと、つらつらと書いたが、単に飽き性なだけであるのかもしれない。
とはいえ、結局引越病を発症してしまう人間は、どこかが破綻しているのだけは間違いない。
付き合うなら引越病でない人間がいいのだろう。
さあ、もう直ぐ引越だ。