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サクブンチョウ

生活と音楽と物語と

最果タヒの「夜空はいつでも最高密度の青色だ」は我々の希望である

詩は逃避でなく希望である

 

詩は逃避ではなく希望である。

私たちが最も手軽に、どんな場所でも、どんな時でも言葉を使って作ることができる希望、それが詩なのだ。

 

インターネットの普及によって、ポエジーが散乱している。自己の不甲斐なさ、不確実さ、それに伴う不安、広がっていく格差、不透明な情報、見えない現実、去っていく大切な人、区別される人の生死、数えればキリがない、わんこ蕎麦みたいに不幸が降ってくるこの時代に、不幸を受け止めたりその傷の痛みを止めるための脱法ドラッグ、すなわちポエジー。ポエジーはじわじわと人を殺す。

しかし、ポエジーはポエムのようなものであってポエムではない。詩は、この苦しい世界でその先の新しい世界を示す。

 

不甲斐なくて遣る瀬無い夜に、一編の詩を朗読することで、明日に立ち向かえる気がする。街頭のスピーカーから歌われる詩で、すくむ一歩を踏み出すことができる。ふとしたタイミングで、詩は突然顔を出す。背後からそっと、我々に力を与えてくれるのだ。

ポエムはじわじわと人を生かす。

 

お願いだから、僕がみえているだけのそれだけの瞳になってくれないか。だれかの暇つぶしのために、愛のために喧嘩のために、僕は生きているわけじゃない。退屈を知らない人に、生きる意味って、あるの。ネオンと呼び込み、雑踏と罵声。ひとごみは、ぼくは、お前を孤独にするために流れていくわけじゃない。

 

ー「新宿東口」(夜空はいつでも最高密度の青色だ、より一部抜粋) 

 

詩は流体だと思う。気体ほど不確かではなく、個体ほど断定的ではない。その世界を映像として体現していたのが、映画『夜空はいつでも最高密度の青色だ』である。

 

映画ではなく、詩の映像化


『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』

 

監督は『舟を編む』の石井裕也。主演は池松壮亮石橋静河。盤石のキャスティングだと思われるが、観るまでは一抹の不安があった。詩を元に映画を作った時に、果たしてそれは観るに耐えるものとなるのだろうか、と。ポエジーになってしまうのではないか、と。

 

結論はタイトル通り、ポエムであった。すごい。

基本的に各役の台詞は少ない。映像と音楽と、それから小道具で演出している。それから台詞の半分は最果タヒの詩の一節の引用である。それから、詩を映像化しているところもあった。例えば、首都高の詩。

 

きみがどこかにいる、心臓をならしている、それだけで、みんな、元気そうだと安心をする。お元気ですか、生きていますか。

ー「彫刻刀の詩」

 

 

きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、きみはきっと世界を嫌いでいい。そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。

ー「青色の詩」

 

 

余分な言葉がないからこそ、劇中の言葉が脳内に響く。時には不協和音のように、一方ではパイプオルガンのように。

 

この映画は、水面のカットから始まる。詩が流体であることのメタファーなのではないか、と私は思っている。詩の世界が始まったことを示している。

 

それから物語は始まる。詳述は避けるが(なぜなら、スクリーンで見て欲しいから。こんなに良いのにすっからかんだった!)登場人物の誰もが、社会の間で、不安に不甲斐なく、それでも懸命に生きている。気をぬくとぬるま湯で溺れてしまう、月収30万の生活はそこにはない。地震に怯え、明日に怯え、社会に怯えている、そこには私やあなたもいるはずだ。

 

でも、そんな彼らの中で、希望となるのは「詩」であった。言葉によって(あるいは風景によって)希望を手にするのだ。

それから、恋と愛。

 

恋と愛なんてものは、我々が我々自身を嫌いでいる間は存在しないのだ。でも、この映画では終に存在する。自分自身を愛することができるようになったのだ。朝日と共に、希望を咲かせている。

 

見終わった後、明日が少し楽しみになったし、ちょっといいことが起こる予感がした。日常に生息するいやな予感は、すっかり影を潜めている。

 

石井裕也はこの作品によって、私たちに希望を伝えたかったのだろう。だから、最果タヒを選んだし、詩をモチーフにしたのだろう。

 

そこでようやくエンディングがThe MirrazのNew Worldであったことにも合点がついた。4年前の曲をなんで今更、と思ったし、The Mirrazとこの作品がマッチしているようには予告の時点で思わなかったのだ。うどんとそばみたいな、近いけど遠い。

 


The Mirraz - 「NEW WORLD」歌詞PV

 

でも、これはうどんととり天だったわけだ。

未来を作るために生きてるんだ、って。そうだよ、その通りだ。

 

今ある答えなんてもういらないんだよ

それはもう終わった問題なんだよ

こんな時代なんだ 好きにやろう

 

好きにやるという口実のもと、明日も仕事なのにこんな時間まで(AM 3時)文章を書いてしまった。新しい時代へ追いついていこう。

 

1300円で買える希望。 サウジアラビアとロサンゼルスの違いはなんだろう。

夜空はいつでも最高密度の青色だ

夜空はいつでも最高密度の青色だ

 

 

 

 

私たちは岡崎体育の「感情のピクセル」を笑えない

盆地エモ

マーケターとして十分に食っていけるんじゃないかと思う。岡崎体育と寿司くん。

 

公開から2日で100万再生越えを達成し、急上昇ランキングでも1位を記録し、上々な滑り出し。

 

歌詞は本当によく考えてふざけられていて、メロディはキャッチーなので、思わず歌ってしまう。うんぱっぱーのやっほー。近所のコンビニ行くときにも口ずさんでしまったけれど、心が少し壊れてしまった人みたいに見えたんだろうな。

でも、この文章を書いてる横で、家の下の道を、「わんわんわん」って、どう聞いても人の声が通り過ぎて行ったので、本当に心が壊れてしまったら、言語体系も変わってしまうのかもしれない。

 

他方、曲は結構格好いい。日本の「そこそこ人気のエモバンド」っぽい。ギターとアレンジはPay money To my PainのPABLOが参加しているし、本気でエモをやりにきているのはヒシヒシと伝わってくる。

 

 

 

完成度が高いからこそ笑えない

で、本題。完成度が高いからこそ笑えないのである。いや、正確には笑ってしまったんだけど、笑った後で胸が痛くなるというか、心の底から笑えないのである。

 

無論、エモをディスっているように見えるから、というわけではない。(これについては岡崎体育もツイートしているし)

 

それじゃ、なんでかって話になるんだけれど、エモバンド側の心境を想像してしまうから。ずっとエモだけでやってきて、そこそこ売れてるバンドまでなってきたのに、今までテクノやってた知らない奴が突然やってきて、同じレベルのクオリティを出してきた。

やってられないでしょ。積み上げてきたものが一気に持っていかれる訳じゃないですか。しかも全然外野から。後輩のエモバンドが売れていくよりよっぽどきついんじゃないかって。

 

で、こういう理不尽なことって日常にあるわけで。たまにいるでしょ、圧倒的なセンスとか知性とか才能とかでこっちが積み上げたものをポーンと越えて行く奴。本当にすごいし、敬意も払うし、こっちも負けじと追っていくんだが、やっぱりちょっと胸は痛んでぽきっといくじゃん。私は心が弱いので、すぐ凹む。2mmとか先いかれただけでも凹む。

 

あるいは、3年間遊びもせずコツコツと勉強していた人の成績を、青春を謳歌していた奴が受験期になってさらっと越えて行くようなものだと思う。

 

しかも、エモバンドたちの曲より、岡崎体育の曲の方がPVも伸びている。

これって、コツコツしてたのは結局大学落ちて、クソ野郎は東大受かっちゃうような感じ。僕は後者です、本当にすみません。

 

ま、でもより良いものが出ちゃったらそれは仕方がないし、より良いものを出せる方が強いんだから、岡崎体育はやっぱりすごいな、と。

 

事象が変われば、おんなじ現象は、明日は我が身に起こるかもしれないし、あるいは、読んでいるあなたに起こるかもしれない。あるいは、起こしていけるかもしれない。

 

どちらにせよ、身を絞りながら生み出していくしかないな、と。願わくば、起こす側でいたい。

 

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おやすみなさい。

 

不自由なくらしと不自由な精神

今月頭に骨折をした。

正確に言えば、右足首を脱臼骨折し、ついでに靭帯があるべき場所から剥がれてしまった。正確さを欠けば欠くほどに、情報としての意味は失われていく。単に骨折としただけでは、そこには無限の可能性があるのだ。だから面倒にも補足をした。とはいえ、これでもまだ正確であるとは言えない。

しかし私はこれ以上正確さを増やすことはできない。靭帯がどのように剥がれて、どのくらいずれているのかもわからない。折れた骨の名前も知らない。

 

正確に言えることは、私の右足首には鉄のボルトとプレートが入っていること、それから松葉杖を使わなくては(しかも2本!)移動ができないということである。

 

 

今朝恋人に言われた言葉が耳にこびりついている。ずっと奥の耳垢みたいに。あるいは、古びたマンションの外装のシミみたいに、しっかりと染み付いている。

正確に言えば、「どうしてそんなに卑屈になっているの」だ。

言った相手からすればそれは本当に他意はないだろうし、実際私は卑屈になっているのだ。だから耳から離れずに延々とこだましている。

 

どうにもこうにもしようがないが、この気持ちをどうにかするしかないのだ。問題の解決には情報収集と課題発見が不可欠である。だから、卑屈の意味について調べてみた。

【卑屈】《名・ダナ》

自分をいやしめて服従・妥協しようとする、いくじのない態度。

 なるほど、もっと傷がついた。「朝日と同時にC7を弾く」ことが起こらなかった人生を誇らしく思っていないが、自分をいやしめて服従・妥協しようとしてきたとは思っていない。腹が立ってきた。課題が増えてしまった。

 

元来内向的な人間であるので、外部に情報を求めたのが間違いだ。自己の問題は内省によってのみ解決されるべきなのだ。ああ、こうしてまた独りよがりになっていく。

 

まあ、元からここ1、2週間の精神の変化は、今私の足元に転がっている銀色の物質に起因していることは明白だ。

 

松葉杖の生活は想像以上に精神的に負荷がかかる。

人ごみに出れば多くがこちらを一瞥する。気の毒そうな顔をする人、何があったのかと足元に視線を移す人、何もみなかったように視線をずらす人。どことなく周囲に漂う気遣いの優しさと少しの窮屈さ。

コーヒーを飲むにも、人の手を借りなくてはならない。スタンド型のコーヒーショップでの「席までお持ちしますね」が痛い。

映画館にいけば、狭い通路をなんとか歩く。人の邪魔にならないようにいそいそと端の席を探す。上映前の静かな場内にこだまする「コツン、コツン」という音。席に座れば邪魔にならないように足元に杖を置く。映画の間はトイレは絶対にいけない、水も飲まずじっと鑑賞するのが賢明な選択のようだ。

音楽を聞きに行くことは不可能だし、晴れた空の下走り回ることもできない。食事も近くの飲食店ばかりになってしまう。

電車やバスに乗れば、皆疲れているにもかかわらず席を譲ってくれる。仕事に向かうサラリーマン、子供を抱いたお母さん、そんな人が譲ってくれることもあるのだ。右足以外は元気な23歳男性なのに、譲らせてしまっている。とはいえ、たち続けて30分の通勤できるはずもなく、「ほっ」としながら席につくのだ。

 

 

どこにいても、どこの店に入っても気を遣わせてしまう。

誰と過ごすにも気を遣わせてしまうのだ。

 

恋人と友人と周囲の親切な他人とに支えられて日々を生きている。本当にありがたいし、心の底から感謝している。みんなの力がなくては私は生活ができない、本当にありがとう。

 

でも「みんなの力がなくては私は生活ができない」のだ。本当にこれが苦しい。だんだんと人に会うのも申し訳なくなってしまうのだ。感謝しているからこそ、これ以上を手を煩わせたくないのである。でもその願いは届かないのだ、だって足がつけないのだから。

 

自分自身がとても弱い存在に感じてくる。この世に上下はないのだが、地に足をつけ、自動販売機でジュースを買い、コーラ片手にハチ公前で緑のバスに背をかけながら、携帯片手に友人を待つ女の子が上に見えてしまう。疲れた顔でカバン片手に読書をするサラリーマンが上に見えてしまう。彼らに比べて私の存在はとても弱い。

 

そんな日々である。しかし、時間は過ぎていくし、明日も次の予定もやってくる。

じわじわと精神を蝕んでくる猛毒である。遅効性の毒は怖い。着実に昨日より少しだけ多く毒が溜まってく。そうして或る日突然死んでしまうのかもしれない。

 

でも、きっとその時は訪れないだろう。

毒が増えるのと同じように、解毒もこの世界には溢れている。日々少しずつ解毒されているのだ。『そうして私たちはプールに金魚を』という映画によって。友人の「本当に気を使うな」という笑顔によって。真っ赤でおおきな苺がのった、真っ白なショートケーキによって。そして自分で書くこの文章によって。

 

足が治ったら歩けることの幸せを感じるのだろう。それから、世界が今までよりもほんのすこし、キラキラと見えるようになるのだろう。

 

今日も渋谷から私は松葉杖でバスに乗るのだ。

 

最近のこと

2017年02月26日

誰かと一緒に朝から晩までものを作ることがとても楽しいこと
誰かと一緒にサンドイッチを作ることがとても幸せなこと
そうやってできたサンドイッチはとても美味しいこと
誰かと一緒に見る映画は見た後の感情が大きくなること
誰かと一緒に酒瓶越しに迎える朝はけだるくて清々しいこと

誰かのために並ぶ行列は苦にならないということ

誰かと一緒に眠る夜はとても暖かいということ
1人で寝ることは結構寒いということ

誰かと一緒に暮らしていることは煩わしくて安心するということ
1人で暮らすことは孤独で捗るということ

1人で風邪をこじらせるととても悲しいこと
そんな時は辛くても誰かと話すことで元気が出ること

スケートボードは3日乗らないと乗れなくなること

・・・

そんなことを思い出したり、初めて知ったりしています。

水色の生活

2017年02月19日

最近は水色の生活が続いていて、とても心地が良い。水色と言っても黄色が混ざった淡い水色。今までの生活は濁ったオレンジ色。
ああ、水色の生活はこんなに息がしやすいものだったんだ、と。

 

濁ったオレンジ色の生活は、抜け出すことが困難で、ゆっくりゆっくり精神を蝕んでいたな。私の好きなニコチンみたい。たまに恋しくなるけど、もう戻らない気がする。

昼過ぎに起きてそこから酒を飲んで、燻らせてゆらゆらと管を巻く生活はとても快適だけど、煙のように消えて無くなってしまうと思ったから。春の夜の夢より遥かに短く。

 

とっても大好きだった街と、呪いのようにこびりついていた思い出にさよならが言えた。本当に長かった。アホくさいな、なんて思うけれど、ずーっと呪いに捕らわれていた。ずっと。

でも、呪いにしない方法と覚悟がわかったので、かかって良かったな、と今では思う。

 

水色の生活のおかげで、外に出るようになった。歩いて30分以内に面白い所がたくさんあることに気がついてしまった。


私は欲深い人間なので、一度外に出るようになると、もっと楽しく移動したいな、という思いが膨らんでくる。だから、移動手段として、ペニーを買った。通貨ではない。要するに小さいスケートボード

 

ミーハーと言われればそれまでなんだけれど、これが結構楽しい。

 

慣れてくると平坦な道と緩やかな坂であれば乗って移動できるし、重心の移動に筋肉を使うので、少しばかり運動をしたような気にもなれる。それから両手が空くので、コーヒーを飲みながら移動できてしまう。
春になったら、コーヒー片手に移動するお花見。
夏になったら、ソーダ。日焼け止めの匂いの後にシュワっと泡がはじける。
秋は落ち葉でメロディかき鳴らして、走りにくいね、なんて会話をする。
冬は、残念ながらお休み。

 

こんな生活は、なんだか、水色でしょう?
まだまだバランス崩すことも多いけど、そんな生活を送るために何度も乗って行こう。
図らずも買ったペニーは水色で。
私の頭は単純だな、って。

 

そういえば。
水色は青を薄く引き伸ばした色だって、どこかの詩人が言ってた。終わったと思ってた青い春を、私は今無理矢理引き伸ばしている。薄く薄く、できるだけ長く。可能ならずっと。
水色の生活を続けていきたい。

「美」の呪いについて - 映画『ネオンデーモン』感想

2017年2月11日

 

「美しさは全てではない、唯一である」印象的な一節だった。
(ちなみに原文は"true beauty is the highest currency we have, without it should be nothing" 邦訳として非常にハイセンスだなと思う。)

 


The Neon Demon Movie CLIP - Beauty is Everything (2016) - Elle Fanning, Bella Heathcote Movie HD

 

これから書くのは『ネオンデーモン』についての感想である。様々な評価がされているのようだけれど、私なりに感じたことを整理しようと思う。先に断っておくれけど、ネタバレが多分に含まれるので留意してほしい。

 

 

難しいことをダラダラと書くのは味気がないし退屈なので(灰色になってしまう)、結論だけ述べると、総合芸術として良い作品だった。

テーマが一貫していたし、音楽(エンドロールはいただけないが)、光、彩色、モチーフが作り込まれていて、情報量がとても多い。そのせいで、堰が壊れたように決壊した疲労が襲ってくる。

ああ、これは文学だな、と。映像をツールとして表現した文学。構造と比喩が緻密だっった。表現したいことに対して、映像と言葉、効果的な方を使っていたように思う。

タナトスやエロスの演出には、映像を。(例えば、プールのシーン。大きな棺を想起させるし、飛込み台に立つジェシーは十字架を体現していた。巨大な墓標。タナトス。月明かりの中での失禁のシーン。月経と妊娠の比喩だと思われる。まさしくエロスだった。)

伝えたいメッセージには、言葉を。

true beauty is the highest currency we have, without it should be nothing

とか。

 

それから、これは神様あるいは王の話だと思った。「美=絶対的なもの」と定義しているから、その構造は納得である。

古代の国家では、王は特別な力を持っていたそうだ。その力は次代の王へと継承されるのだが、その継承方法は、王を殺すことただ一つで有った。超越した力は、タナトスを媒介にして次の者へと移っていく。

 

ジェシーが写真撮影されるシーンはまさに王を表していはいなかったか。ジェシーには古代文明の王を想起させるような顔細工が施され、そして肉体を強調した男性性としてのカメラマン、彼は力を与える神官のようであった。金箔も王のメタファーとして機能していた。

 

最後、賞味期限切れ(out of date)のモデルが再び息を吹き返したのは、ジェシーの持っていた「美の力」を正当な手段によって継承したからなのだ。

 

全体的に「宗教画」みたいな印象があるのは、この仕掛けのせいではなかったか。

 


ここからは退屈を持て余した人のために、一体何人いるかわからないが、つらつらと3つの観点から詳細を書いていこうと思う。

・テーマの普遍性
・映像としての美しさ
・徹底的な対比構造と比喩

テーマの普遍性

「美」というものはとても強い力を持っていて、私たちはしばしばその力に飲まれてしまう。その飲まれ方はもはや陶酔であり抗えない。そのせいで、古今東西頻繁にテーマとしてみるけれど、「美」の力の強大さを描いたものは少ないように思う。「美」にとりつかれたら最後、それは逃れられないのだ。どんな制約やルール、倫理にとっても「美」の眼前では無力。

この作品では、その呪いは、殺人とカニバリズムをもたらした。ジェシーの殺害はモデルの賞味期限云々の文脈で語られるべきではなく、「美の呪い」の結果なのだ。

 

みんなが私に憧れる

 

そう。ジェシーの美がみんな欲しかったのだ。
モデルの二人、そしてメイクのルビー。彼女たちは「美」を追い求め、それぞれに生活をしていた。しかし、ジェシーの存在によって永遠に届かないことを悟る。
いや、違う。
「美」を手に入る唯一の手段を悟った、というべきだろう。

だから殺して、それから食べた。


でもきっと、この感覚は珍しいものではなく、とても艶やかな青色でドレープのリズムが均一な服を見つけたら買わずにいられなかったり、真っ白でふわっとした生クリームに包まれた真っ赤ないちごとショートケーキにうっとりして頭がいっぱいになってしまうことの延長である。私たちはその呪いが弱いから、どうにかこうにか生活できているだけなのだ。


さて、この映画を見て1つの小説を思い出した。三島由紀夫の『金閣寺』である。
唯一の「美」にとりつかれ、その存在に魅了され、生活を壊され、それでも諦めきれず、「美」を燃やすことで克服し、手に入れた1人の禅僧の話。

 物語冒頭から漂っている「美」の魔力。

私が人生で最初にぶつかった難問は、美ということだったと言っても過言ではない。
あれほど失望を与えた金閣も、安岡にかえったのちの日に日に、私の心の中でまた美しさを蘇らせ、いつかは見る前よりももっと美しい金閣になった。 

そして、彼は悟るのだ。 

金閣を燃やさねばならぬ  

燃え盛る金閣寺を見つめながらのこの一節が印象的だった。

一ト仕事終えて一服している人がそう思うように、生きようと私は思った

 

要するに、ネオンデーモンの構造は金閣寺の構造とほぼ同一なのだ。普遍的な構造が、素材を変えて描かれている。

 

普遍的な題材に対して新しい価値をつけているのが、この作品の真価なのかもしれない。それを支えるのが、残り2つの要素である。 

映像としての美しさ

この作品の監督は ニコラス・ウィンディング・レフン

彼は色覚障害を持っていて、中間色が見えないらしい。それゆえか、映像の色使いが驚くほど美しい。全体的に彩度が強い。それから色の重ね方が、すごい。思わずうっとりしてしまう。シーンを切り取って、部屋中にちりばめておきたい。

 

これに関しては、ぐちぐち言語化するのは野暮であるので、リンクを貼って終わりにする。

 


映画『ネオン・デーモン』予告編

 

徹底的な対比構造と比喩

映像と同じくらいこの作品で緻密だと思ったのは、徹底したシンメトリーとふんだんなメタファーである。贅沢すぎるメタファーは、おいおい、こんなに盛っていいのかよ、というくらいだった。飲食店なら確実に破産である。

 

タナトスとエロス、男と女、赤と青、田舎者と都会人・・といった物語全体としての対比から、ジェシーの中の少女性と女、あどけなさとしたたかさ、劣等感と強烈な美への自信・・といった内面の中の対比まで至るところで作られていた。

 

さらに「赤と青」はメタファーとしての要素も持ち合わせている。

動脈と静脈のメタファーであり、少女性と女のメタファーである。

それから赤は変化のメタファーであり、青は停止のメタファーである。人が死ぬシーンではいつも青が使われていた。言い換えれば、エロスとタナトス。(きがする)

ジェシーが死ぬシーンは、全体的にペールブルーが引かれていたし、衣装はブルーのワンピースだった。(しかも赤いガウンを脱ぎ捨てて、着替えている!)モデルの片方が死ぬシーンは背景の壁は淡いブルーだった。

一方で、ランウェイで「美」にジェシーが飲まれるシーンは赤い光が用いられていたし、片方のモデルが「美」を取り込むシーンは赤いライトがたかれていた。移動中の車も赤だった気がする。

 

メタファーについてであるが、緊迫ショーのシーンが象徴的だった。暗闇の中、縄で縛られた女性は贄のようだった。そしてそれを眺める4人のうち、笑っていたのはジェシーだけ。ここから彼女が贄となることが暗示されていたのではないか。

 

そして山猫のシーン。あれはルビーへの脅威を暗示していた。ルビーの家には山猫の剥製があったのだから。ジェシーの明晰さがなくなってしまったことの表れなのか、とも考えたが・・・

 

三角形が多用されていたが、あれの意図は組みきれなかった。万華鏡あるは鏡面としての三角錐なのか、と思ったが。でも感覚的にはあのシーンを表すのは、四角ではなく、丸でもなく、五角形でもなく、線でもないから、三角形なはずなのだけれど。

終わりに

ここまで興奮のままに良かった側面を書いていたが、何から何まで完璧だったとは思えない。本当に必要なのかわからないシーンもあった。13歳少女へのレイプのシーンとか。ムカムカした後味の悪さの演出のために使うには、ちょっと行き過ぎているとも思えた。

 

とはいえ、総合芸術としてとてもレベルが高い作品だと私は思ったので、ここに記録として残しておく。

クソつまらんと言う意見もわかるし、見終わった人がいたら、お話しましょう。終わった後の議論も含めて、映画鑑賞が完結すると思うので。

 

大切なものは目に見えない

2017年2月2日

 

「大切なものは目では見えない。だから、こころで見るんだ」

星の王子様の主題である。

 

「そんなの当たり前じゃないか。使い古された言い回しに、何酔っているんだ。」と思う人がいるかもしれない。

 

君達は、私がそうだったように、わかった気になっているだけなのだ。頭の中で、言葉を分解して、噛み砕いて、それからごくりと一飲みにして、「わかった」と思い込んでしまっている。

 

でも、本当に「わかった」というのは、胃袋より少し上で、背中とお腹のちょうど真ん中あたりの小さな小さな場所にすっと入った時だと思う。

認知して、繋げて、咀嚼することは「わかった気になること」。

 

 

私がそうだったように、といったものの、結局私も未だわかった気になっているだけなのかもしれない。

 

 

「わかった」瞬間は突然やってくるもので、ひらめきに似ている。それは一日中小さな机の上で、ずーっと悩んでいた問題が、次の日にくたびれたベッドの中で解けたときと同じように、突然にやってくる。あるいは、旧来の友人の突然の結婚のように。それから、夏の夕立のように。

 

2013年の7月からずっと悩んでいた大きな問題があった。その問題は解こうとするほどにどんどん絡まっていて、鉛筆で書いて、消しゴムで消して、また鉛筆で書いて、到底解けないんじゃないかって思っていた。解けない気がしていたし、なんだか問題も見えなくなってしまった、それから2016年が終わった。

先はわからないもので、2017年1月になって「わかった」。

 

 

「わかった」のならば、本来は記憶なんて必要ないんだけれど、わからなくなってしまったときのために記録しておく。これはそのための文章。