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サクブンチョウ

生活と音楽と物語と

苦役列車と途中下車

各駅停車

約束していた友人にドタキャンされ、待ち時間のコーヒー2杯とコロッケサンドの合計1340円分だけをお土産に深夜1時に家に帰った。 一人でぼそぼそと歩く新宿はとても攻撃的で、「あゝ、新宿」なんておもっていられるか、と思う。一人で歩く道はどこだって寂しいが、どうも新宿は特に寂しい。

大森靖子が「わたし、新宿が好き 汚れてもいいの」なんて歌っていたが、歌いたくなる気持ちが少しだけわかる。 その点池袋はいい。サクラホテルの一階、サクラカフェで深夜まで時間を潰したってちっとも寂しくなかった。だから歌にもならないのだろうけど。 ちなみにサクラホテルは代田橋だか笹塚のサクラホテルがいい。深夜まで空いているし、日本人がいない。仕事をやめたらそこで本を読む生活を取り戻したいと思う。

小田急線の各駅列車は終電が遅くて、本当に便利である。各駅列車はのんびりしすぎて、乗れない時期があった。停滞した人生を予言しているかのような気持ちになっていたからだ。今思えば随分とアホくさいが、結局1時まで友人を待ってしまうあたりアホくささに変化はないのかもしれない。

とりあえず、私の口はもう酒を飲むような気持ちで満ち溢れており、ゲーム機を買いにおもちゃ屋にきたものの、クリスマス商戦で売り切れていた時の小学生が味合うような、大変に大きな絶望と枯渇を感じていた。 諸事情で今年の有給が0になっている私にとって3連休は、旅人にとってのオアシスであり、北朝鮮にとってのミサイルであり、いわゆる希望というやつだ。

社会人になってからというもの、飲酒を控えるようになり、家にはアルコールを置いていないのだが、押し入れを漁ると、いつかの友人が置いていった鍛高譚が出てきたので、こいつを飲むことにした。 Wiiの代わりにゲームウォッチを使うようなものだが、まあゲームはできる。問題はない。

ただ飲むにしても寂しかったので、映画でもみることにした。 見よう見ようと思って、2年だから3年だかが経過していた映画でもみることにした。翌日が休みというのはよい。どんな気分になっても引きずることができる。そう、こんな風に。

苦役列車

原作は西村賢太。中卒の私小説作家であり、主人公の貫多が中卒で小説家を志す設定であることから、非常に私小説的な作品である。2010年に書籍『苦役列車』は芥川賞を受賞している。原作を読んだものは映画を見ない、と決めているので、読んでいないが時間があれば手にとってみたい。

人生は不条理(これはこの作品のテーマでもある!)であるので、原作の後に映画は見ないが、映画の後に原作は読む。論理式なんてものはまやかしである。論理は屁理屈であり、便所の紙にもなりやしない。

で、映画は監督山下敦弘、主演に森山未來高良健吾前田敦子。いい塩梅の布陣である。山下監督の作品はどれも秀逸で、リンダリンダリンダなんてものは、青春映画の結晶である。高速バスでリンダリンダリンダを見て、号泣しながら大阪に着いたこともある。


映画『 リンダ リンダ リンダ』

世の中を二分して「サブカル」と揶揄される人たちで見ていない人間はいないと思うが、見ていなかったらぜひ見て欲しい。なぜなら今日は3連休だから。3連休じゃない人たちはもっと見てほしい。なぜなら君たちは3連休ではないから、だ。

話が脱線したが、昭和後期の東京を舞台にした映画である。 雰囲気は予告編でも見て欲しい。雰囲気を伝えることにかけては、予告編ほどあてにならないものはないが。


「苦役列車」予告編

小学五年生の時に、父親が性犯罪を起こし一家離散。中卒から人足仕事を続けている貫多こと森山未來は、とある現場で日下部正二に出会う。彼らは友人となっていき、日下部の力を借りて憧れの櫻井康子とも友達になる。 彼らは全員19歳であり、上京組の日下部、櫻井は次第に変質していき、東京でくすぶり続けていた貫多もまたコンプレックスを引きずるばかりで停滞を続ける。その果てにあるのが、離散であるのだが、この映画は序盤から離散の匂いが漂っている。

貫多と正二は仲がいいのだが、どこか正二が一歩引いているのだ。ある種の侮蔑、貧乏に向けられるあの眼差しがある。友達であるに違いはないのだが、一線を引いてしまうあの感覚が描かれている。

例えば食堂のシーン。 貫多がみそ汁を白米にかけてべちゃべちゃと食べるのだが、正二は一瞥して、一瞬だけ顔を曇らせる。あるいは、書店のシーンで、「お前も本なんて読むんだな」という言葉が口をつくし、正二と貫多が通うのは風俗と酒場だけである。映画には行かないのだ。

何も責めることはできないし、正直なところ言えば、正二の気持ちを理解できてしまう。共有したい相手と共有したくない相手はいるのだ。私たちは日々そんな選択ばかりしている。この映画はあいつと見たいな。このイベントはあの子と行こう。あいつはちょっと違うな。なんて。 逆に言えば、私たちは常に選ばれている。そのことに自覚的であるとチクリと苦しいのだろう。選択の対象として、選ばれやすい人間と選ばれにくい人間がいて、その差がコンプレックスを生み出しているのだ。

そして貫多の恋もうまく行かないのだ。「友達」になれたはずの康子ちゃんを貫多は押し倒してしまう。このシーンは土砂降りで、いささかモチーフがベタすぎやしないか、とは思ったが、前田敦子の演技が帳消しにしている。 「好きになんてならないよ、ヤったって」哀しさと愛情を混ぜて、キリッとした目で貫多を見つめて言うのである。女性には勝てないなって思わせる、あの瞳で。そのあと貫多は愕然として、そのシーンは終わっていく。ここでヤらないところに貫多の真剣な恋心も同時に映されている。性欲が瞬間的に蒸発してしまう、あの瞬間。 二度と経験なんてしたくないけれど、そんなこともあった。

全てを失った貫多だが、最後に希望を映して終わる。 軽蔑していた人足のおっさんが夢のために立ち上がっている姿を居酒屋のテレビで目にするのだ。それから貫多は筆をとる。ようやく筆をとるのだ。

極めて青春だな、と思うのは、このおっさんが立ち上がったきっかけは貫多にあると言うこと。貫多がおっさんを叩き起こし、それからおっさんが貫多を叩き起こす。3年遅れで。 きっとおっさんを軽蔑していたのではないだろう。貫多は怖かったのだ。おっさんも怖かったのだ。自分の小さなプライドを失ってしまうことが。 彼らに自分を見てしまった人たちは、この2時間は苦役列車である。しかし、最後に救われるのだ。安心してほしい。このシーンがなかったら、鍛高譚をもう2杯は飲んでゲロ吐いて寝てた。

こんな碌でなしの物語を見るたびに浮かんでくる音楽がある。 ハヌマーンバズマザーズである。 ハヌマーン私小説的な世界で生きている。どうしてこんなにおぼつかないのだ、と。音楽については何か書くのはアホくさいので、聞いてほしい。


ハヌマーン「Fever Believer Feedback」

フロントマンであった山田亮一が私小説的帰結を迎えた結果、解散。その後、再始動したのがバズマザーズである。 正直音楽のキレも感度もハヌマーンには劣っている。しかし、これが現実であり、本人も自覚しながらそれでも歌っている。その姿には心が打たれる。音楽はコンテキストも含めての鑑賞作品であるので、こっちもめちゃめちゃ格好いい。

途中下車

全編を通して、どこか自分の人生と重なってしまった。 私は平成を生きているし、大学を出ているし、家賃も6万円のところで暮らすことができた。でも、人足の現場は、古本屋時代のバイトを思い出すし、そこでの友人のことを思い出す。幸いにも私たちは離散していないが。

最初重ねていたのは、貫多であるのだが、ある時から日下部にその対象はシフトする。おそらく貫多が倉庫番を逃げ出したところだろう。日下部はきっとあのまま倉庫番を続け、それから一般企業に就職し、おしゃれな彼女と暮らすのだろう。それからふとしたタイミングで、人足のことを思い出し「あの頃は刺激的だったな、もう今更土は運べねえけど」なんてこぼすんだろう。

まるで今の私みたいに。あるいは彼みたいに。 あんなに何かを変えると言っていたのに、何も変えられないまま23歳になってしまった。学問への批判も、映画も、設計も、それから文章を書くことも。全て丸っと投げ出して、途中下車してしまった。 苦役列車からの途中下車はとても魅力的で、安定したものだなって思う。本当に幸せだ。

けれど終着点にたどり着くのは貫多であり人足のおっさんなのだ。苦役列車に乗り続けた人々なのだ。

途中下車を悔いているつもりは毛頭ないが、そろそろ駅のホームに立って、次の電車を待とうではないか。 各駅停車の苦役列車かもしれないが、もし次の電車が来るならば、もう一度飛び乗ってみようと思う。