生活と蜃気楼
「ねえ、聞いてよ。この前久しぶりに家に直帰したの。それも3時。何していいか全然わからなくって。」
「飲みにいかないなんてありえないね。」
「そうなの。でもお金がなくなっちゃって。あーマジ渋い。」
「大学の授業ってなんだか高校に比べて退屈で。頑張っても成果は出ないし、やる気も出ない。」
「わかる。高校の頃はなんでもやればやるほど結果が出たもんね。あ、そういえば。今度飲みに行こうよ、うちらまだ飲んでないじゃん」
ふらっと入った喫茶店で、隣の席の男女が工場で大量生産されたみたいな青春で盛り上がっている。どこにでもある話とどこにでもある悩みは彼らにとってここにしかない話であり、悩みなのだろう。
工場で大量生産された煙草を吸いながら、これまた大量生産されたマシンでこの文章を書いている。
わたしが感じている遣る瀬無さもありふれた遣る瀬無さなんだろう。コンビニの化粧品棚の隣にひっそりと売っていてもおかしくない。
良品計画、遣る瀬無さ、580円。
いつからかキラキラしたものは減ってしまった。ガラクタだと思っている。会社で働くこともだんだん霞んできてしまった。
俗に言う社会人2年目のありふれた悩み。
そもそもこの「社会人」という言葉、よく考えてみるとてんでおかしい。
社会人ってのは高校や大学を卒業し、組織に属すことができた人間のことを指す。逆にそうではない人間たちは社会人ではないのだ。社会の外にいる人たちである。アウトサイド。
だから隣の男女は社会には属していないのだ。彼らはアウトサイダー。
この三軒茶屋の喫茶店には社会とその他の境界がある。彼らはなんなんだろう。
言葉はなんて傲慢なんだろう。
でもそれならば、わたしはアウトサイダーでありたい。