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サクブンチョウ

生活と音楽と物語と

最近のこと

2017年02月26日

誰かと一緒に朝から晩までものを作ることがとても楽しいこと
誰かと一緒にサンドイッチを作ることがとても幸せなこと
そうやってできたサンドイッチはとても美味しいこと
誰かと一緒に見る映画は見た後の感情が大きくなること
誰かと一緒に酒瓶越しに迎える朝はけだるくて清々しいこと

誰かのために並ぶ行列は苦にならないということ

誰かと一緒に眠る夜はとても暖かいということ
1人で寝ることは結構寒いということ

誰かと一緒に暮らしていることは煩わしくて安心するということ
1人で暮らすことは孤独で捗るということ

1人で風邪をこじらせるととても悲しいこと
そんな時は辛くても誰かと話すことで元気が出ること

スケートボードは3日乗らないと乗れなくなること

・・・

そんなことを思い出したり、初めて知ったりしています。

水色の生活

2017年02月19日

最近は水色の生活が続いていて、とても心地が良い。水色と言っても黄色が混ざった淡い水色。今までの生活は濁ったオレンジ色。
ああ、水色の生活はこんなに息がしやすいものだったんだ、と。

 

濁ったオレンジ色の生活は、抜け出すことが困難で、ゆっくりゆっくり精神を蝕んでいたな。私の好きなニコチンみたい。たまに恋しくなるけど、もう戻らない気がする。

昼過ぎに起きてそこから酒を飲んで、燻らせてゆらゆらと管を巻く生活はとても快適だけど、煙のように消えて無くなってしまうと思ったから。春の夜の夢より遥かに短く。

 

とっても大好きだった街と、呪いのようにこびりついていた思い出にさよならが言えた。本当に長かった。アホくさいな、なんて思うけれど、ずーっと呪いに捕らわれていた。ずっと。

でも、呪いにしない方法と覚悟がわかったので、かかって良かったな、と今では思う。

 

水色の生活のおかげで、外に出るようになった。歩いて30分以内に面白い所がたくさんあることに気がついてしまった。


私は欲深い人間なので、一度外に出るようになると、もっと楽しく移動したいな、という思いが膨らんでくる。だから、移動手段として、ペニーを買った。通貨ではない。要するに小さいスケートボード

 

ミーハーと言われればそれまでなんだけれど、これが結構楽しい。

 

慣れてくると平坦な道と緩やかな坂であれば乗って移動できるし、重心の移動に筋肉を使うので、少しばかり運動をしたような気にもなれる。それから両手が空くので、コーヒーを飲みながら移動できてしまう。
春になったら、コーヒー片手に移動するお花見。
夏になったら、ソーダ。日焼け止めの匂いの後にシュワっと泡がはじける。
秋は落ち葉でメロディかき鳴らして、走りにくいね、なんて会話をする。
冬は、残念ながらお休み。

 

こんな生活は、なんだか、水色でしょう?
まだまだバランス崩すことも多いけど、そんな生活を送るために何度も乗って行こう。
図らずも買ったペニーは水色で。
私の頭は単純だな、って。

 

そういえば。
水色は青を薄く引き伸ばした色だって、どこかの詩人が言ってた。終わったと思ってた青い春を、私は今無理矢理引き伸ばしている。薄く薄く、できるだけ長く。可能ならずっと。
水色の生活を続けていきたい。

「美」の呪いについて - 映画『ネオンデーモン』感想

2017年2月11日

 

「美しさは全てではない、唯一である」印象的な一節だった。
(ちなみに原文は"true beauty is the highest currency we have, without it should be nothing" 邦訳として非常にハイセンスだなと思う。)

 


The Neon Demon Movie CLIP - Beauty is Everything (2016) - Elle Fanning, Bella Heathcote Movie HD

 

これから書くのは『ネオンデーモン』についての感想である。様々な評価がされているのようだけれど、私なりに感じたことを整理しようと思う。先に断っておくれけど、ネタバレが多分に含まれるので留意してほしい。

 

 

難しいことをダラダラと書くのは味気がないし退屈なので(灰色になってしまう)、結論だけ述べると、総合芸術として良い作品だった。

テーマが一貫していたし、音楽(エンドロールはいただけないが)、光、彩色、モチーフが作り込まれていて、情報量がとても多い。そのせいで、堰が壊れたように決壊した疲労が襲ってくる。

ああ、これは文学だな、と。映像をツールとして表現した文学。構造と比喩が緻密だっった。表現したいことに対して、映像と言葉、効果的な方を使っていたように思う。

タナトスやエロスの演出には、映像を。(例えば、プールのシーン。大きな棺を想起させるし、飛込み台に立つジェシーは十字架を体現していた。巨大な墓標。タナトス。月明かりの中での失禁のシーン。月経と妊娠の比喩だと思われる。まさしくエロスだった。)

伝えたいメッセージには、言葉を。

true beauty is the highest currency we have, without it should be nothing

とか。

 

それから、これは神様あるいは王の話だと思った。「美=絶対的なもの」と定義しているから、その構造は納得である。

古代の国家では、王は特別な力を持っていたそうだ。その力は次代の王へと継承されるのだが、その継承方法は、王を殺すことただ一つで有った。超越した力は、タナトスを媒介にして次の者へと移っていく。

 

ジェシーが写真撮影されるシーンはまさに王を表していはいなかったか。ジェシーには古代文明の王を想起させるような顔細工が施され、そして肉体を強調した男性性としてのカメラマン、彼は力を与える神官のようであった。金箔も王のメタファーとして機能していた。

 

最後、賞味期限切れ(out of date)のモデルが再び息を吹き返したのは、ジェシーの持っていた「美の力」を正当な手段によって継承したからなのだ。

 

全体的に「宗教画」みたいな印象があるのは、この仕掛けのせいではなかったか。

 


ここからは退屈を持て余した人のために、一体何人いるかわからないが、つらつらと3つの観点から詳細を書いていこうと思う。

・テーマの普遍性
・映像としての美しさ
・徹底的な対比構造と比喩

テーマの普遍性

「美」というものはとても強い力を持っていて、私たちはしばしばその力に飲まれてしまう。その飲まれ方はもはや陶酔であり抗えない。そのせいで、古今東西頻繁にテーマとしてみるけれど、「美」の力の強大さを描いたものは少ないように思う。「美」にとりつかれたら最後、それは逃れられないのだ。どんな制約やルール、倫理にとっても「美」の眼前では無力。

この作品では、その呪いは、殺人とカニバリズムをもたらした。ジェシーの殺害はモデルの賞味期限云々の文脈で語られるべきではなく、「美の呪い」の結果なのだ。

 

みんなが私に憧れる

 

そう。ジェシーの美がみんな欲しかったのだ。
モデルの二人、そしてメイクのルビー。彼女たちは「美」を追い求め、それぞれに生活をしていた。しかし、ジェシーの存在によって永遠に届かないことを悟る。
いや、違う。
「美」を手に入る唯一の手段を悟った、というべきだろう。

だから殺して、それから食べた。


でもきっと、この感覚は珍しいものではなく、とても艶やかな青色でドレープのリズムが均一な服を見つけたら買わずにいられなかったり、真っ白でふわっとした生クリームに包まれた真っ赤ないちごとショートケーキにうっとりして頭がいっぱいになってしまうことの延長である。私たちはその呪いが弱いから、どうにかこうにか生活できているだけなのだ。


さて、この映画を見て1つの小説を思い出した。三島由紀夫の『金閣寺』である。
唯一の「美」にとりつかれ、その存在に魅了され、生活を壊され、それでも諦めきれず、「美」を燃やすことで克服し、手に入れた1人の禅僧の話。

 物語冒頭から漂っている「美」の魔力。

私が人生で最初にぶつかった難問は、美ということだったと言っても過言ではない。
あれほど失望を与えた金閣も、安岡にかえったのちの日に日に、私の心の中でまた美しさを蘇らせ、いつかは見る前よりももっと美しい金閣になった。 

そして、彼は悟るのだ。 

金閣を燃やさねばならぬ  

燃え盛る金閣寺を見つめながらのこの一節が印象的だった。

一ト仕事終えて一服している人がそう思うように、生きようと私は思った

 

要するに、ネオンデーモンの構造は金閣寺の構造とほぼ同一なのだ。普遍的な構造が、素材を変えて描かれている。

 

普遍的な題材に対して新しい価値をつけているのが、この作品の真価なのかもしれない。それを支えるのが、残り2つの要素である。 

映像としての美しさ

この作品の監督は ニコラス・ウィンディング・レフン

彼は色覚障害を持っていて、中間色が見えないらしい。それゆえか、映像の色使いが驚くほど美しい。全体的に彩度が強い。それから色の重ね方が、すごい。思わずうっとりしてしまう。シーンを切り取って、部屋中にちりばめておきたい。

 

これに関しては、ぐちぐち言語化するのは野暮であるので、リンクを貼って終わりにする。

 


映画『ネオン・デーモン』予告編

 

徹底的な対比構造と比喩

映像と同じくらいこの作品で緻密だと思ったのは、徹底したシンメトリーとふんだんなメタファーである。贅沢すぎるメタファーは、おいおい、こんなに盛っていいのかよ、というくらいだった。飲食店なら確実に破産である。

 

タナトスとエロス、男と女、赤と青、田舎者と都会人・・といった物語全体としての対比から、ジェシーの中の少女性と女、あどけなさとしたたかさ、劣等感と強烈な美への自信・・といった内面の中の対比まで至るところで作られていた。

 

さらに「赤と青」はメタファーとしての要素も持ち合わせている。

動脈と静脈のメタファーであり、少女性と女のメタファーである。

それから赤は変化のメタファーであり、青は停止のメタファーである。人が死ぬシーンではいつも青が使われていた。言い換えれば、エロスとタナトス。(きがする)

ジェシーが死ぬシーンは、全体的にペールブルーが引かれていたし、衣装はブルーのワンピースだった。(しかも赤いガウンを脱ぎ捨てて、着替えている!)モデルの片方が死ぬシーンは背景の壁は淡いブルーだった。

一方で、ランウェイで「美」にジェシーが飲まれるシーンは赤い光が用いられていたし、片方のモデルが「美」を取り込むシーンは赤いライトがたかれていた。移動中の車も赤だった気がする。

 

メタファーについてであるが、緊迫ショーのシーンが象徴的だった。暗闇の中、縄で縛られた女性は贄のようだった。そしてそれを眺める4人のうち、笑っていたのはジェシーだけ。ここから彼女が贄となることが暗示されていたのではないか。

 

そして山猫のシーン。あれはルビーへの脅威を暗示していた。ルビーの家には山猫の剥製があったのだから。ジェシーの明晰さがなくなってしまったことの表れなのか、とも考えたが・・・

 

三角形が多用されていたが、あれの意図は組みきれなかった。万華鏡あるは鏡面としての三角錐なのか、と思ったが。でも感覚的にはあのシーンを表すのは、四角ではなく、丸でもなく、五角形でもなく、線でもないから、三角形なはずなのだけれど。

終わりに

ここまで興奮のままに良かった側面を書いていたが、何から何まで完璧だったとは思えない。本当に必要なのかわからないシーンもあった。13歳少女へのレイプのシーンとか。ムカムカした後味の悪さの演出のために使うには、ちょっと行き過ぎているとも思えた。

 

とはいえ、総合芸術としてとてもレベルが高い作品だと私は思ったので、ここに記録として残しておく。

クソつまらんと言う意見もわかるし、見終わった人がいたら、お話しましょう。終わった後の議論も含めて、映画鑑賞が完結すると思うので。

 

大切なものは目に見えない

2017年2月2日

 

「大切なものは目では見えない。だから、こころで見るんだ」

星の王子様の主題である。

 

「そんなの当たり前じゃないか。使い古された言い回しに、何酔っているんだ。」と思う人がいるかもしれない。

 

君達は、私がそうだったように、わかった気になっているだけなのだ。頭の中で、言葉を分解して、噛み砕いて、それからごくりと一飲みにして、「わかった」と思い込んでしまっている。

 

でも、本当に「わかった」というのは、胃袋より少し上で、背中とお腹のちょうど真ん中あたりの小さな小さな場所にすっと入った時だと思う。

認知して、繋げて、咀嚼することは「わかった気になること」。

 

 

私がそうだったように、といったものの、結局私も未だわかった気になっているだけなのかもしれない。

 

 

「わかった」瞬間は突然やってくるもので、ひらめきに似ている。それは一日中小さな机の上で、ずーっと悩んでいた問題が、次の日にくたびれたベッドの中で解けたときと同じように、突然にやってくる。あるいは、旧来の友人の突然の結婚のように。それから、夏の夕立のように。

 

2013年の7月からずっと悩んでいた大きな問題があった。その問題は解こうとするほどにどんどん絡まっていて、鉛筆で書いて、消しゴムで消して、また鉛筆で書いて、到底解けないんじゃないかって思っていた。解けない気がしていたし、なんだか問題も見えなくなってしまった、それから2016年が終わった。

先はわからないもので、2017年1月になって「わかった」。

 

 

「わかった」のならば、本来は記憶なんて必要ないんだけれど、わからなくなってしまったときのために記録しておく。これはそのための文章。

 

 

待つことと想像すること

2017年1月24日

 

待つことは想像することなのかもしれない。

だから待つことは苦手だ。想像してしまうから。

 

 

 

 

朝の後に昼が来て、それから夜が来る。

冬の朝の水はとても冷たい。

ギターを弾くと音がする。

悲しい気持ちだと涙が出る。

薬指より人差し指が短い。

 

男の子と女の子。

自己と他者。

 

 

当たり前のことを並べていると安心する。

それから、文章を書いていると安心する。

 

ここ数日は色々なことがあった。

ジェットコースターみたいだ、なんて思ったらお洒落だけれど。

そんなことはなくって、強いて言えば、深夜の高速バスだ。

 

車窓の景色は、ちょっと眠っている間に変わっていて、さっきまではあんなにキラキラしていたのに、いつの間にか真っ暗になっていて。

 

「ああ、トイレに行きたいなあ」なんて思いながら、腰を捻っている。

 

このバスが行く先はわからないし、自分が運転手なのか、あるいは、お客さんなのかわからなくなる。

 

 

いや、どっちにもなれるのか。

運転手になってしまえばいいのだ。

 

橙の淡い電灯の廊下をふらふらと歩いて、一番前まで歩いて行って、運転席に深く座って、ハンドルを握って、バスを動かす。

そのままライトをつけて、高速を降りて、進路を変えてしまえばいい。ここからどこに向かうのも、僕が全部決められる。

 

 

 

 

頭の中では簡単なのに、如何にもこうにも足がすくむ。

その弱さに頭が痛くなってくる。

 

だから私は文章を書く。

言葉はこの世界で一番強いと信じているから、私は文章を書く。

 

 

ああ、相変わらず、自分のために文章を書いてしまったなあ、と思いながら、換気扇を回す。

 

タバコのヤニが歯についてベタベタする。歯磨きをしよう。

引越という病

2017年1月15日

寺山修司と引越

寺山修司という劇作家・詩人をご存知だろうか。

教養のある人間、あるいはサブカルと揶揄される何か、の人たちは既知の人物だろう。

信仰している人間も少なくないのかもしれない。

 

そしてこの文章を読んでくれている物好きは、上記のどちらかに当てはまるに違いないので、名前を出している、というわけである。

 

さて、この寺山修司、引越好きだったと思われる。「哀しき口笛」にそれを示唆する描写があるのだ。

 

まあ、彼のことだから、どこまでが真実なのかわからないし、インターネットで検索しても、そんな情報はない。

 

それでも私は彼が引越好きだったと信じることにしている。

 

なぜか。

 

私も引越が好きだから、ただそれだけである。

寺山修司が引越好きなら、この無駄に金も手間もかかる行動を何度も取ってしまう悪癖が少し肯定されるような気がしている。

 

引越は病であり、依存であり、趣向である。

 

この世に暮らす人々は大きく2つに大別できる。

引越が好きな人、と、引越が嫌いな人である。

 

後者は驚くほど引越をしない。

1つの街の1つの家に何年も住み続けることができる。

いわば耐久の鉄人である。

 

対して前者は、すぐに居を移す。

何かと理由をつけて引越するものもいれば、

理由もなく家を移してしまう人もいる。

言ってしまえばこれは病気である。

 

直しようがない病気である。

 

新しい街での暮らしに夢をはせ、

 

ああ、あの街で暮らしたらどんな生活が待っているだろう、帰り道にはどこへ寄って、春には何々をして・・・

 

そんなとりとめのない妄想を何度も繰り返すのだ。

 

引越病の原因

あらゆる病には根本的な原因があるので、

引越病にも根本的原因があるのではないか、と考えた。

 

あるとすると、その原因は、

「思い出からの逃避」なのではないだろうか。

 

 

ある街に住んで、その部屋で生活をしていると、街にも部屋にも至るところ、(例えば駅のホームとか、本棚の下から3段目の1冊の本とか)に思い出が潜んでいる。

 

仕事帰りの悔しい気持ちで読んだ一節とか、

 

恋人からの連絡を無視して、他の女の子と手をつないだ部屋とか、

 

3年ぶりに会う友人と飲んだコーヒーの店とか、

 

隣の席のおじさんと12時まで語り込んだ居酒屋とか、

 

洗濯機が壊れて寒い夜に両手いっぱいに洗濯物を抱えて向かったコインランドリーとか、

 

別れ話を切り出された、最寄駅から徒歩5分の小さな喫茶店とか、

 

好きな人となれない街で終電を逃して、ドキドキしながら階段を上ったあのバーとか、

 

そんなようなありふれた思い出が溢れている。

引越病あるいは引越病予備軍たちは思い出が溜まりすぎると、その重みに耐えきれなくなり、どうにかこうにか逃げたくなってしまう、のではなかろうか。

 

新しい部屋で、新しい街で、新しい匂いの中で、まっさらになったような気持ちを味わいたくなってしまうのだ。

 

そう考えると、引越病を発症する人間は、重度のメランコリニスタなのかもしれない。あるいは、自ら、大小様々な思い出に押しつぶされにいくほどに、感傷中毒なのかもしれない。

 

 

 

などと、つらつらと書いたが、単に飽き性なだけであるのかもしれない。

 

 

とはいえ、結局引越病を発症してしまう人間は、どこかが破綻しているのだけは間違いない。

 

付き合うなら引越病でない人間がいいのだろう。

 

さあ、もう直ぐ引越だ。

 

Re:

2017年1月9日

 

あけましておめでとうございます。

 

新しい年になってから、まだ1週間だった。

学生時代とは時間の流れがすっかり変わってしまったのだと気がつかされる。お正月なんてひと月以上前のような気持ちである。

 

こんなに時間の速度が速くなったのは、1年前に比べて追ってくるものが増えたから、なんじゃないかと思っている。

 

町内会のしょぼいマラソンを悠々と走っていたのに、

気がついたら東京マラソンに出ていた。

 

後ろからは「何か」がたくさん迫ってくる。

自ずと焦って、速度が上がってしまう。

バテてしまって捕まるか、逃げ切るか。

 

しかもさらに厄介なのは、

追ってくる「何かたち」に捕まらないように走っていたら、道がわからなくなってしまった。私が走りたかったコースはここであっているのか。あまりにも人が多すぎて、わからなくなる。

 

きっと、少しずつずれてしまっている気がするから、隙間から遠くを見て、耳を澄まして進んでいきたい。

余裕なんてないけれど、やるしかないのだ。

 

なんてことを書いていたら、この前のWIREDの編集長のことばを思い出した。

http://wired.jp/2017/01/03/needs-dont-matter/

 

そうそう。

今年の目標を立てた。

名をあげたい。ものを作る人として。

 

一度止まってしまうと、

本棚より重い一歩を踏み出すために

この文章を書いた。

 

今年も走っていく。